小松原中村精吾君を偲ぶ

関西学院大学商学部 昭和33年卒業
小松原 正巳


早過ぎる悲報だった。病院通いをしていると聞いていたが、彼のいつもの癖で事を大袈裟に言わず、サラリとした話し
方で病状を語っていたのであまり気に留めずに聞き流していた。

  現役時代のマネージャーの延長で当然のように共同通信に入社し、運動記者時代から晩年会社の指導者となる間、時代の流れと世界における日本の技術レベルの低下等でマイナースポーツ化しつつある卓球界を心配し、休みなく情報発信を続けて球界を支えてくれました。

  我々OB仲間での精吾君は、いつもマネージャーをやっているような位置付けで、他のOB連中もそれを期待し頼り切っていたように思います。何時も縁の下の力持ち的な存在に徹してくれていました。

  精吾君を思うとき、大きな位置を占めるのは西山恵之助氏とのことです。

平成12年9月に亡くなった西山恵之助氏が出版された、「卓球行きつ戻りつ」「関西学院大学卓球部物語(第1部・第2部)」など三つの労作には膨大な戦跡と資料が掲載されていることは承知のとおりですが、ジャーナリスト精吾君のバックアップによるところ絶大だったが、彼は黙して語らず、こと更自慢することは一切ありませんでした。

また、この編集作業では、老齢化し益々気むずかしくなる西山先輩を支えて出版にまでこぎ着ける支援は大変苦労の多い応援であったことを記憶している。

平成11年夏、西山先輩より私に「決別の書」と称する遺言のような手紙が送られてきた。上記の労作の発刊やその他の事について仲間の理解と協力がなさ過ぎると言うことです。

精吾君にも届いた筈ですが、持ち前の人柄と説得力で先輩をなだめ、事なきを得たのではないかと思います。氏は収集した膨大な卓球関係の資料類は総て精吾君に預けて、引き継いでもらいたいといつも言っていました。2人はあの世で積る話をしているのだと思う。

  人は生まれるとき、母親のお腹からこの世へ飛び出してくるように、亡くなるときは新しい世界へ飛び出して行くもので、別れはあっても悲しいことではないとも言われています。

思い出をこの世に残し元気で旅立ったことでしょう。

  私は、平成12年9月に西山恵之助氏のお別れ会に際し拙い弔辞を捧げましたが、この弔辞で書いた事柄は殆んど精吾君も係ってきたことで、文面・内容についても彼にチエックを依頼し確認してもらったことが昨日のように思い出されます。

  各場面で縁の下の力持ちに徹した精吾君の姿を偲び、併せて亡き西山恵之助氏の功績を思い出して頂く意味で拙い弔辞の全文を掲載させて頂きます。

以上

 

  

  謹んで故西山恵之助様のご霊前に、お別れの言葉を捧げます。

  貴方と初めてお会いしたのは、昭和29年春、私が関西学院大学卓球部の門をたたいた時、コーチとして現役の指導に当たっておられた頃でした。

  貴方は、それより前、親友のD崔根恒(チエ クンハン)氏と昭和15年より全日本学生ダブルス3連覇、戦後の昭和21年にも全日本ダブルス選手権者になられました。

  卒業後は、同和火災海上保険株式会社に勤務する傍ら、昭和31年より昭和36年まで、母校の監督として後輩の指導に秀でた才能を発揮され、高松へ転勤後の置き土産として東西優勝校対抗で11年振りの王座を獲得されました。

この時私は、幸運にもコーチとして会場でこの栄誉を経験させて頂き、以後の2年間監督を引継ぐこととなりました。

  高松から帰任後も、陰日ひなたなく現役の指導にあたられ、その人柄を慕って若い後輩達が「恵会」の名で集まり、奥様の手料理で楽しい一時を過ごされた様子を嬉しそうに語っておられました。

  一方では、文筆活動にも才能を発揮され、随筆「卓球行きつ戻りつ」の発刊に続き、労作「関西学院大学卓球部物語第1部・第2部」を発表されました。

  卓球の技術や出来事を歴史的に徹底して掘り起こし、反省を加え、現在及び将来を予測警告する、と言う論調はその内容からもよく読み取ることができました。貴方の精根を傾けた大作は関係者を大いに驚かせました。そのご苦労が命を縮めることになってしまったのではないでしょうか。卓球一色に彩られた貴方の一生、その執念は何処からきたのでしょうか。母校愛とも相俟って凄まじいものでした。

困難な編集作業の中で、貴方は、青木倫太郎先生や倉橋長七、磯岡新、渡辺重五、D根恒、藤井則和の諸氏から多大なる影響を受けていた、と語っておられました。

  昨年夏、私のところに遺言状だと言って「決別の書」が届けられました。

後輩の私に、母校卓球部に対する活動を長年期待していたが、期待外れと熱意の無さを指摘するもので、「もう誰にも頼まぬ」と言う激しいものでした。

又、「まだまだ、書き残しておきたいことが沢山ある、今後は母校を離れて卓球界のこと、我が友 D崔根恒も」と記されておられました。その後、関西学生卓球連盟誌の編集に着手されるとのことと仄聞しましたがどの程度進んでいたのでしょうか。

作家の司馬遼太郎氏に傾倒されておられましたが、お元気であれば、益々円熟した文節で書き続けられる筈でした。

  決別の書については、「冷却期間を経たうえで」と思っておりましところ、この訃報に接してしまい本当のお別れとなってしまいました。

  幸いにも後を託す後輩が何人かおります。名文は無理としても、協力してご意志を継がなければならないと思います。

  貴方は、我々に「卓球」「母校愛」「学生スポーツはどうあるべきか」を強烈に印象付けて行かれました。

  その昔、ベンチで後輩を指揮している姿、OB達と喫茶店でOB会について語らったこと、夜を徹して煉瓦積みをしたこと、広々としたグリーンで冗談を言い合った頃のこと、更にはご家族で保険の業務に勤しまれている姿等、今も懐かしく思い出されます。

  その中の何人かは先立って行かれました。貴方に影響を与えた6人のうち5人も同じところで、きっと待っておられるのではないでしょうか。

  ここに、西山恵之助様追悼の儀が盛大に執り行われるにあたり、ご生前の関西学院大学卓球部への執念とそのご功績を偲び、慶弔思慕の誠を捧げ、惜別の辞といたします。

 

 平成1293