生涯“卓球記者魂”中村精吾へ。(追悼記)

                     大村 義和


 突然の、驚きの訃報の最初は、東京・共同通信社運動部(豊田副部長)発経由「卓球人」鈴木一さんからの電話。その鈴木さんと今井良春先生(東山高校)と「全日本大学対抗」開催中の京都のホテルで「精吾さんに早く良くなってもらわないと。電話しても奥さん、詳しいこと(病状)を話たがらないし…」と心配話をした夜の翌朝の訃報電話。ついで共同発のFAX。追っかけるように川瀬、松原両氏(関学OB)からも電話をいただいた。「この私たちのホームページには中村先輩が最後の原稿を」と声をつまらせての報告(コピー拝読)を告別式会場で川口氏(同OB)から聞き、乞われるままに小冊子『卓球人』第20号への私の拙文を編集者の了解のうえ、このページにも掲載させていただくことになりました。心くばりの足りないところは、長年の故人との友情に免じてご容赦ください。出棺を校歌“空の翼”斉唱で皆さんが見送られたとき、涙がこみあげてきました。*なお、小冊子『卓球人』は、中村精吾さんも発起同人で「日本の卓球界が後世にも残しておきたい先人の貴重な語録、卓球人の回顧、論評、情報などの同人誌」です。(編集室=0338288821FAX0338283531)                        

<本文> よもや中村精吾さんの追悼原稿を執筆するとは。むろん、病持ちであることは以前から知ってはいたし、今春から病状悪化(関学の後輩・相川雄二氏からの手紙報告ほか)も聞いてはいた。彼の死去(86日)より何日か前に届いた、暑中お見舞いを頭文にしたハガキには「治療が長引きご心配をお掛けしています。休止しているメールを外泊時に久しぶりで開いてみたら返信機能がダメになっていました。しばらくは手紙、はがきにてよろしく」と、あとは自らの体調(病状)にふれず、私の近況への見舞い文だった。昨秋、信楽CCで彼と村山 護氏(精吾さんと同期、元関西学連役員・甲南OB)らと一緒のゴルフを楽しんだが、以前にもましてプレーは快調。「次のゴルフは来春、検査入院のあとに頼みます」と嬉しそうだった。そして新春1月の「全日本選手権」開会式後の“日本卓球人”表彰式(共同・運動部がメディア賞)パーティも鈴木 一さんを助けて甲斐甲斐しく世話役だったのはご承知の通り。我が家の書簡箱には、筆まめな彼の、ひと目で分かるペン字の手紙、ハガキが数え切れない。探せば10年、いや30年、40年前の便りが青春期の息吹を残している。最初の出会いは、私が記者生活5年目の昭和36年(196111月、関学が絶対有利の中大を87で降して11年ぶりに全日本学生の王座獲得(6度目)の感激シーンだった。会場・大阪市中央体育館内は大接戦で熱狂。松原、宮田、近藤、児玉、竹田らが気迫のプレーで王座を奪回した。息詰まる熱戦のすえの勝利に関学ベンチ全員が歓喜に躍りあがった。その一人が中村精吾さんだった。この大会前の西日本学生(久留米)や関西学生春季リーグでも顔を合わせているはずだが、卓球担当まだ1年目記者には主力選手のプレーを視野におさめるのがやっとだった。当時、関西のスポーツ界に底流する打倒関東の気風に地元記者として共感しただけに、関学の快挙は関西スポーツ界のビッグトピックスだ。アマ面のトップ記事で飾ろう!と関学ベンチの動向をくまなくウオッチ。そこに感極まった彼の表情を見逃さなかった。翌日のデイリースポーツ紙の大きな扱い(記事、写真)は一般紙も含め群を抜いていた。その記事切り抜きも含め今日までのメディア全紙の重要な卓球記事資料スクラップを精吾さんは大事に保存しているはずだ。(故田舛彦介氏が中村卓球図書館と命名)その日から彼が報道記者の道を決心したようだ。翌春、共同通信大阪支社運動部記者になった中村記者から弾んだ声で“よろしく”と挨拶を受けた。記者では先輩ながら、卓球については彼が精通者だ。心強い仲間の誕生を喜び、ピンポン外交の頃まで記者席を共にし、また関西学生の強化合宿取材や飲み会を重ねる人生の友となった。同じく卓球記者で活躍の渡邊邦雄さん(朝日)が大阪本社運動部時代、中村記者と3人で飲んだこともあった。その後、東京本社のデスク、運動部長で活躍。人事部長まで歴任。彼が大阪支社長から東京本社常務理事への栄進時、祇園のお茶屋(私の親しい後輩が経営)で祝杯を挙げたら、無事、役員定年の卒業時には義理堅く彼が親戚の料亭に席を設けてくれた。大阪支社長時代に、大阪五輪招致へのアジア卓球選手権組織委員会で私を適任と推挙し、口説かれて承諾したら、2001年世界卓球選手権のメディア委員長も続投となったが、重責を何とか果たし得たのも彼の絶大な協力があったればこそ。病魔に屈せず「卓球人」に心血を注いだ執筆を続け、関学卓球のホームページにも「訃報・岡本広郎OB死去(今年119日)65歳。早過ぎる訃報」(昭和34年関西学生単、複2連覇)の追悼記事を。「これが最後の仕事や」ともらしたとか。そして86日の「全日本大学対抗」開催中に肝臓ガンで同じく65歳の生涯を閉じ、大会会場と同じ京都でお別れ(告別式)とは―。卓球愛一筋とは言え、彼こそ早過ぎるではないか。まだ、信じられない。近々にまた便りが届きそうだ。(合掌!)

     <元デイリースポーツ運動部記者、世界卓球選手権大阪大会メディア委員長>