訃報 岡本広郎OB死去


    

 平成16(2004)年119日朝、脳出血のため大阪府吹田市の病院で死去、65歳。20日付の紙面(大阪日日新聞)やインターネットのホームページで伝えられたニュースは、かつての関学卓球部エースの早過ぎる訃報だった。

 岡本広郎選手は和歌山・海南高校から昭和31(1956)年関学に進み、いきなり暮れの全日本学生選手権でシングルス12位にランクされ頭角を現した。翌年は西日本学生選手権のダブルスに、1年先輩の木田と組んで優勝。全日本学生でも3位に入り、シングルスも5位。3年生になった33年には関西学生、西日本学生ともシングルス、ダブルスの2冠を獲得。全日本のダブルスも8強入りした。さらに最上級生の34年は関西学生のシングルス、ダブルス(パートナーは同学年の藤原)とも2連覇、西日本学生のダブルスには3連覇し、まさに無敵の存在だった。

 左利きの鋭いカット攻略には定評があり、当時の日本チャンピオン(32,33年)でペンホルダーカットの成田静司(日大)、次いで(34)シエークカットの渋谷五郎(明大)に無敗を誇る文字通り「カットの打てる打撃人」として、世界代表の有力候補だった。だが3334年の全日本学生は単、複ともランキングにも入れず、全日本も34年のシングルス14位だけ。関学から久々の世界への夢は消えた。岡本にすべてを注ぎ込んで指導した当時の監督・西山恵之助OBが「関西学院大学卓球部四十年史」に綴った一文を、次に紹介する。

 ―岡本広郎という素材。和歌山から入学してきたが、これが卓球かと驚かされた子。何もできないが、カット打ちだけは何となく魅力を感じさせたサウスポー。よし、これでいこう、これを「日本一」のカット打ちにしよう。それからは遮二無二、マンツーマンが始まった。当時、日大の成田静司という純粋カットマンが、全日本のナンバー1だった。学生選手権で、東西対抗で、岡本は成田にだけは敗れたことはなかった。そのころ世界選手権の代表選考は、カットが打てる打撃人というのが第一の要素だった。私たちは希望を持った。協会の長谷川理事長に岡本を打診した。「西山君、全日本のベスト8には残らせてくれよ」。内諾も同然だった。不幸、ベスト8の手前で、ロングマンにやられ、関学から久しぶりの世界出場の夢は破れた―

 卒業後、旭化成に入社した岡本は後輩たちに延岡での合宿を世話したのをはじめ、何かと面倒を見た後、西山監督夫妻の仲人で結婚。その後は社業の多忙に加え、健康を害したこともあって卓球界から遠ざかり、後年は闘病生活を続ける不本意な日々だったという。

34(1959)年のドルトムント大会を目前に、あと一歩のところでスルリと手から零れ落ちた「世界」を、どんな思いで眺めていたのだろうか。あのときの無念さは、ひとり西山監督だけではなく、当時の部員全員のものだったといまも強く思い出す。

 吹田市の公益社千里会館で営まれた120日の通夜、21日の告別式には現役時代をともに過ごした先輩、後輩たちが別れを惜しみ、見送る学生選手のなかに故西山監督夫人君子さんの姿もあった。          ()